世界は不平等にできている。私にそう教えてくれたのは、妹でした。

妹は子供の頃から体が弱く、高校生のときに難病を併発しました。脊椎側彎症にはじまり、筋萎縮性側索硬化症、そして最後には癌。33年という長い月日を、彼女は過酷な闘病に費やしました。

私たち姉妹は、両親を癌で亡くしています。ですから、私は妹の介護をしてきました。妹と違って、私は少女の頃から体が大きく、頑丈でした。同じ血を分けた姉妹のはずなのに、どうして妹だけが苦しまなければならないのか。キャスターとして、女優として働きながらも、私はいつもそう思っていました。

彼女にもっと良いケアをしてあげたいという想いから、43歳の時に聖路加看護大学(当時)に入学し、看護師と保健師の資格を取りました。東京大学大学院に進み、博士号も取りました。でも、それからまもなく妹は亡くなりました。”医療のプロ”としての資格も、病の前には役に立たなかった。無力感で呆然としました。

そんな中、東日本大震災がおきました。私は震災から2週間後に被災地に飛び、支援活動を行いました。身につけた医療の知識や技術が活かせることに使命感をおぼえつつも、疑問を抱かずにはいられませんでした。行政の医療支援が、あまりに実情に追いついていなかったからです。

どうしてこんなに社会は“不平等”なのだろう。考え、悩む中で私がたどり着いたのは、「人にとって、平等なのは時の流れだけだ」という境地でした。それ以外は不平等で満ちている。だからこそ、人がそれぞれの分野で力を発揮し、個性を活かして支え合わなければなりません。そのための努力に「遅すぎる」ということはないのです。

私の人生には、これまでいくつかのターニングポイントがありました。通訳の仕事からキャスターデビュー、女優業の開始。そして介護・医療の道への転身。私がキャスターになったのは33歳のときですし、聖路加看護大学(当時)に学士入学したのは43歳。いずれも、人からは「遅すぎる」と言われるスタートでした。でも、遅いスタートは私を奮い立たせこそすれ、後悔させたことは一度もありません。一つひとつの歩みが私に、「人は何歳からでも生まれ変われる」という信念を与えてくれました。

60代で政治の道を志すことも、「遅咲き」ではあるのかもしれません。でも、60歳を過ぎて初めてわかることもあります。

病に苦しむ妹は、40代の私に、大学で学び直す意欲を与えてくれました。そして被災地の人たちは、50代の私に、社会のためになすべきことを教えてくれました。60代、残りの人生のすべてをかけて世の中に尽くしたい。その意志が定まった今こそ最良のタイミングであると確信し、この度の決断となりました。

日本は生まれ変わらなければなりません。社会に散在する不平等を少しでも是正していくためには、政治・行政の抜本的な改革が必要なのです。終戦から70年経ってもまだ「戦後」という言葉を使い続け、硬直している日本を、真に自立した国へと再生させていく。それが、私たちの世代の責任です。

人は何歳からでも生まれ変われる。それを実感し、体現しながら生きてきたひとりの日本人として、「きぼうときずな」があふれる日本を実現するために、私、石井苗子の残りの人生のすべてをかけて取り組むことをお約束します。

石井苗子